エリトリアの戦争地域で少年時代を過ごし、米国バージニアのアーリントンのキャリアのある裕福な白人家庭にもらわれたルーズ。(ケビンKelvin Harrison Jr.)治療したが、まだPTSD symptomsが癒えないルースなのかも。統合失調症的な要素をもつ性格、二重人格、人を笑顔で操れる高校生。美しい笑いの中に何か秘めている事実がある。その笑いが時々、無理に作っている笑いのように見える。
アーリントンのノバ高校では南部連合の旗(the first flag of the Confederate States of America)が降ろされていくのがウィルソン先生の教室の窓から見える。バージニア州でも米国社会の変化の影響が出てきていて、人種差別の象徴の旗は公立の組織からなくしているのも監督に裁量だろう。
ルースは白人の家族に育っているから、親からこういうことを言われていないという意味でも『自由』スピリットで育っている。
両親が『Our Black Son 』といって息子を守らなければならないと言ってるのは過保護で、現実の問題点から逃げようとしている。彼のエリトリアで生きた頃の精神問題PTSDを治療したと言ってるが、戦火で、子供心に人にうまく頼って生きるための策略を心得てきていることに疑問点を感じていない。
ここでなにかおかしいと感じているウィルソン先生の第六感は正しい。なにかきな臭いものを感じている。私も先生なので、このウィルソン先生の第六感や生徒がなにを書く(描く)かにより、深層をみることができるのがわかる。
ルース・エドガー評論(20)
予告編は、とても良くできていて、観に行こうと思いました。ルース・エドガー を取り巻く先生、両親との出来事。予告編どおりに、レポートの過激な思考から、ロッカー検査のうえの花火没収。ルース・エドガーは、本当に、何かしている…そう思った。でも、しばらくすると、雲行きが変わるんだよね…。先生に、ハメをられてる?…と思った。でも、ラストは、ハメようとした先生を陥れたよね?いろんな展開に、どちらを信じていいか分からなくてなる両親。観ている私も、分からなくなりました。そして、真相は明かされぬまま終わりました。ロッカーの花火だって、ルースが入れたものじゃないかもしれない。でも、自宅にあったはずの花火が無くなり、火事が起こったのは事実。彼女が、お母さんに話した話は、本当のこと?みんなが、真実の中に嘘を紛れ込ませているから、何が真実で、何が嘘なのか、分からなくなった。映画を観ている私たちに、判断を委ねたのだろうか…。とても良くできていただけに、答え合わせしてほしかったかな。
箱の中で生きる者たちが、足を引っ張り合う姿。足掻く姿。箱の存在など理解できない者たちが「愛」を語るしかない現状への絶望。
「優等生か怪物か」なんてサスペンス要素以前に、アメリカ社会の人種問題の生々しさが、ここ数年の同題材作品の中では、一番でした。
ルースは、光の当たる場所で己の心に反する欺瞞的な生き方をし、仄暗い場所で、自分の気持ちに従っているだけに過ぎないのであって。白人社会の優しさに感謝するスピーチをする一方で、箱の中で生活するジレンマから逃れるかのように、町の中をひた走る。
無駄だよ。どんなに懸命になったところで、しょせんは、箱の中からは出られないし、出ても満足感などなく、後悔するのがオチ。しょせんは、この先も、今まで通りに「箱の中の人生だ」。
って言ってるみたい。
「光」を意味する”Luce”はイタリア語で、発音は「ルーチェ」。「ルース」は同単語の英語読みで、女の子の名前である「ルーシー」も語源は同じだったりします。ルースの出生地であるエリトリアは元イタリア植民地。英国保護領、エチオピア支配の時代を経て1991年に独立。以来、「民主正義人民戦線」書記長であるイサイアス・アフェウェルキ大統領による独裁体制が継続しており、「アフリカの北朝鮮」と揶揄される国。北部海岸まで陸路を旅し、イタリア・ギリシャを目指そうとするボートピープルを生み出す「危機的な問題を抱える国」の一つです。ちなみに、イサイアス・アフェウェルキ大統領は、中国に留学と言う名目で招かれた支配者候補生の一人で、彼の独裁手法の根底には毛沢東思想があります。ルースは幼少期に「戦場に駆り出された経験」すらあると言う設定。彼のガールフレンドであるキム・ステファニーは、おそらくベトナム戦争時代の難民。現実にアメリカの一般の人の身の回りに在り得る状況設定は、この物語が全く現実性の無いものではないと感じさせてくれます。
こんな強烈で、人を引き付けるのストーリーの映画を観たことがない。聴衆者がまぎれもなくこのストーリーに引き込まれていき、参加できる映画で、主に学校と家庭だけの会話で視聴者に質問、問題点を投げかける。
BLMのデモの動きの中、白人が作ったシステムをかえ、他民族にも合わせたシステムを作ろうとする運動が活発化している米国の現実に、ちょうどマッチする作品になっている。
エリトリアの戦争地域で少年時代を過ごし、米国バージニアのアーリントンのキャリアのある裕福な白人家庭にもらわれたルーズ。(ケビンKelvin Harrison Jr.)治療したが、まだPTSD symptomsが癒えないルースなのかも。統合失調症的な要素をもつ性格、二重人格、人を笑顔で操れる高校生。美しい笑いの中に何か秘めている事実がある。その笑いが時々、無理に作っている笑いのように見える。
ルースの正直さが見えないから両親は何が本当か探そうとするが、母親のエゴを通して過保護的にもなる。母親を学校まで送らせて、多分彼がウイルソン先生の教室に仕掛けた花火の惨事をみせるなどという企みを図る。奔走したり、疑ったりする母親を見ているのも辛い。
高校生のルースが大人を操っているようの演技していて、何が本当なのか、誰がしたのかわからなくなっている。その中で、他の映画ではこういう疑問はなかったが、この映画の場合は黒人の作った映画だと思え、どんな人かと思い、映画を観終わってから調べたら、ルースのように監督はアフリカのナイジェリアから10歳ぐらいに米国に来て優秀な経歴を持つ黒人だとわかった。
アーリントンのノバ高校では南部連合の旗(the first flag of the Confederate States of America)が降ろされていくのがウィルソン先生の教室の窓から見える。バージニア州でも米国社会の変化の影響が出てきていて、人種差別の象徴の旗は公立の組織からなくしているのも監督に裁量だろう。
白人の友達が黒人の同級生をBlack Blackというがルースに対してはルースだという。ルースは受け入れるが、他の黒人はうけいれられないという差別。こういう差別はよく聞く。監督もルースのように言われてきたのかもしれない。
ウィルソン先生の教室の飾りは彼女の性格や思想を反映している。シーザスチャベス、オバマ、マザーテレサ、キング牧師の写真が貼ってあるし、世界地図はアフリカが中心に見える。私個人の教室も半分は私の哲学が現れているホスターでもう半分は生徒のためのポスターが貼ってある。
ウイルソン先生とルースの思想の戦いが圧巻。これに焦点を絞って書こう。
黒人同士は黒人に厳しい。家庭の躾もそうだが、ルースが夜、ジョギングをしているが、黒人家庭だったら、特に息子には親は夜、暗い中ジョギングをするなというと思う。肌の色が夜と合わさって、夜、動く犯罪人と間違われて殺される可能性があるから。
ルースは白人の家族に育っているから、親からこういうことを言われていないという意味でも『自由』スピリットで育っている。
両親が『Our Black Son 』といって息子を守らなければならないと言ってるのは過保護で、現実の問題点から逃げようとしている。彼のエリトリアで生きた頃の精神問題PTSDを治療したと言ってるが、戦火で、子供心に人にうまく頼って生きるための策略を心得てきていることに疑問点を感じていない。
ここでなにかおかしいと感じているウィルソン先生の第六感は正しい。なにかきな臭いものを感じている。私も先生なので、このウィルソン先生の第六感や生徒がなにを書く(描く)かにより、深層をみることができるのがわかる。
ここでルースとウィルソン先生だけに焦点を絞って書く。黒人のなかの世代や背景の違う二人の黒人(ルースと歴史のウィルソン先生)黒人のなかにある根強い問題を追及する映画になっている。
社会の有能な黒人は評価され認められる。でも、一般の黒人は人間一人の価値よりまとめてblack Black (ルースの白人の友達)という見方を社会からされるようだ。
これを『公民権運動』でやっと自由を勝ち取ったが、まだまだ白人が作ったシステムの中で生きている黒人(例えば、ウィルソン先生)にはbest/perfect にならなければ社会から認められないと考えてる思想がある。だからアメリカ生まれじゃない黒人の生徒(ルース)にもパーフェクトを望むし、黒人の代表、完全である良い見本という期待感がある。ルースの友達ディシャンは先生のいうパーフエクト候補ではないからアスリーのスカラーシップも落してしまう(ルースのような生徒はどこもかしこも奨学金をくれるし、彼の家庭はそんなものはいらない。でも、ディシャンにはこれが唯一だったかもしれない)。はっきりいって、優秀でありリーダーになりそうな黒人は箱の中に入れて育てる。ここから外れるものの面倒はみない。
しかし、ルースはエリトリアの戦争地域から今の両親に救われて、アメリカの『自由』をやっと満喫していて、学業、スポーツ、討論などでも自分の力を試していて、自分のなかでベストを尽くすことを学んでいる。でも、学校の期待も背負っている生徒。彼は自分のことを米国社会(特に奴隷制度の名残の黒人社会)がみているステレオタイプの枠に自分を入れられないし、ウィルソン先生のいうパーフェクトを望む黒人の世界のエリートの思想にも足をいれない。『黒人であることは十分じゃない』とルースにウィルソン先生は感じさせる。
ルースは人間として、自分の人生の戦いに挑んでいるが、ウィルソン先生は黒人としての戦いをルースに望んでいる。
黒人のなかでベストになるには完全でなければならないというウィルソン先生の思想とは相容れない二つの見解の戦いである。
最後のシーンでルースは母親に『もう一度やり直せるチャンスがある。』というが、ウィルソン先生は? ルースよ、卑怯な行動を取らず正々堂々と戦ってほしい。
黒人の地位向上を目指して黒人生徒の粗探しをして陥れる女教師。
オバマの再来と称賛される優等生。
激突するけど人種差別には何の意味もない。
映画以外でもオバマは差別撤廃の政策もしてませんし、そんな大統領は存在しない。
さらに危険な事でも無い限り、黒人は殺される、アメリカでは、ちなみに有色人種は殺され続ける、アメリカでは。
作中、ルースの本心は殆どわからず、観客からすればまさに「聖人」か「怪物」か判断できず、「黒人」「優等生」「ティーンの男の子」という社会的役割に当てはめられない人間の多層性に翻弄されることになります。もちろん、1人の人間が「聖人」であることも「怪物」であることも本当はあり得ないんですが。
ルースに疑いの眼差しを向けこの物語の火種となる、黒人フェミニスト教師のハリエットも大変多面的で素晴らしいキャラクター。やっと、白人を助けたり、ひたすら性格が良かったり、かわいそうだったりする役割ではない、マイノリティの中の多様性が描かれるようになってきたということではないでしょうか。日本ではまだここまでマイノリティの多面性を描くことはできないように思います(文化と文化を単純に比べることは出来ませんが)。
終始ハラハラし、物語の展開が読めない人間サスペンスでとても面白かったです!監督を追ってみようかな。