ホロコーストを生き延びたユダヤ人たちによる復讐計画の行方を、史実を基に描いたサスペンスドラマ。「ザ・ゴーレム」のドロン&ヨアブ・パズ監督が、復讐計画の生存者への取材を基に脚本を執筆しメガホンをとった。1945年、敗戦直後のドイツ。ホロコーストを生き延びたユダヤ人マックスは、収容所で離れ離れになった妻子がナチスに殺されたことを知り、復讐を決意する。ナチス残党を密かに処刑しているユダヤ旅団に合流したマックスは、より過激な報復活動をするユダヤ人組織「ナカム」に参加。彼らはドイツ人600万人を標的にした驚くべき復讐計画「プランA」を企てていた。「イングロリアス・バスターズ」のアウグスト・ディールが主人公マックスを演じ、「ブレードランナー 2049」のシルビア・フークスが共演。
復讐者たち評論(20)
ですが、、本作のテーマは復讐じゃないんですね、明日、未来をどう作るのか?がテーマってのがミソです。
家族を理不尽に殺されたら、ひどい目に合わされたら、僕はどう思うのだろうか?。本作はずっと問いかけてきます。ホロコーストに限らず争い事の根本ですよね。愛するものを傷つけられたら仕返しするって。当事者同士なら目には眼を歯には歯をはアリだと考える過激な思想をもつ僕です。これまで、現実は知りませんがホロコースト関連の映画やドキュメントを見てきた者としては、これをもたらした奴らに同じ目に合わせたいと思いました。本当に。自分の子供が殺されたなら、虐殺した側の連中の子供を殺し、同じ目気持ちにさせてやりたいとも思いました。・・・過激ですみません。でも、理不尽に命を奪われたら僕は正気でいる自信がありません。
本作は僕のような考えや気持ちを持っている人向けに作られたのではないかな?とさえ思います。主人公はまさに僕だと思いながら見てました。だからこそ、もっともっと説得して欲しかったと思うのです。もっともっとチームに参加している人たちの心情の移ろいを見せてほしかったし、行き着く先の不毛さを描いてほしかったと。僕の考えのスイッチを変えるほどのものを見せてほしかったと思うのです。頭ではわかるのです、報復は次なる報復しか生まないって。自分に起きていなければ、「やめなよ、報復なんて」っていいます。けど、自分に起こったら・・・言えるかな?
もしかしたら、本作に求めすぎなのかもしれませんね。別に、報復抑制映画じゃないですから。
でも、アフター・ホロコーストを描くのであれば、このどうしようも置き場のない気持ち、怒りをどのようにしたのか?を描いてほしかったし、心情も丁寧に描いてほしかったと思うのです。その点が、僕にとっては非常に残念だったと。でも、このような作品が作られる意義は大いにあると思います。
そりゃ、ユダヤというだけの理由で家族を殺され、自分も酷い目にあわされたのなら、復讐を決意する気持ちが湧いてくるのは当然だわな。
でも、復讐は新たな復讐を生むだけ。そのことに気づくかどうか。気づいても、思いとどまれるかどうか。自分が復讐しようとしている相手にも、自分のように子供がいて、その子供が死んでいく姿に平然としていられるのか。
真の復讐とは、なにか。その答えは、見つけることができた。
歴史を眺めぬ者は歴史の愚を繰り返し、歴史に溺れてしまう者は、素直にトレースする。観て、感じて、考えて、歩き出す。そういう日々を大事にしたいと思う作品でした。
妻子と分かれてアウシュビッツに収容されていた主人公マックスは戦後、妻子はナチスによって森の中で殺されていたことを知る。その時、調査の元でナチ親衛隊を探し出して処刑しているミハイル達のイギリスのユダヤ旅団と出会い、仲間に入れてもらう。そのうち、民間人も含めてドイツ人皆殺しを企むナカムというグループに遭遇する。ユダヤ旅団が任務を終了してパレスチナの軍事組織ハガナーに合流する時、マックスは彼らと別れて、ナカムの一員となり、ミハイルに情報を渡す役割をする代わりにハガナーの身分証を発行してもらう。ナカムはドイツ各都市で整備中の水道管に毒を入れて市民を皆殺しにする計画を立てていた。水道管工事の人足として潜り込み、ナカムに入れてもらう。ナカムの一員のアンナは息子をナチスからの逃亡中に地下道で亡くしており、今も自責の念で苦しんでいた。毎夜うなされている彼女の部屋で計画の地図を見つけ、ミハイルに報告する。当初はナカムを裏切っていたマックスだったが、行動を共にするうち、アンナと心を通じ合うようになり、ジレンマを感じる。いよいよリーダーのアッバが毒を入手したという時、ナカムのメンバーの一部はアッバを湊に迎えに行き、アンナは去り、マックスは窓からアンナを見送りつつ、アパートで一人アッバを待っていた。妻子の生存を信じて探していた時に知り合った男からもらった、開けてはいけないという布袋を開けた時、毒の入った鞄とともにアッバが現れ、水道管に入れるために向かっているとミハイルに尾行され、水道管に毒を入れる直前に追いつかれ、もみ合いになった末、世話になったミハイルを絞め殺し、水道管に毒を大量投入、町中の市民が死ぬ…
というのが、目には目を、600万には600万を、のナカムのプランAであった。実際にはアッバはドイツに戻る船で捕まり、プランAは果たされなかった。マックスは故郷に帰り、新しい幸せを見つけて暮らす。それが真の復讐である、と。
エンドロールのラスト「NEVER AGAIN」も効いている。
ラストは家族を失ったユダヤ人の生存者が次々と出てくる。またアッバは実在の人で実話らしい。確かにプランAが実行されていたら、ドイツ人が何も反撃しないとは考えにくい。
ナチス、ユダヤ人虐殺の映画は多く見たが、戦後のユダヤ人の映画はあまりなかった気がする。70年以上経って、被害を描く以上の、考えさせる内容が増えてきた。
戦争は国家の犯罪だ。断罪されなければならないのは国家の指導者であり、その一味である。国家の指導者を特定するのは容易だが、問題は「一味」の範囲をどこまで広げるかということである。
第二次大戦のあと日本の国民の多くは、自分たちは軍部とマスコミに騙されたのだと主張した。軍人は命令に従っただけだといい、マスコミは軍部の発表を伝えただけだと言う。では誰に責任があるのだろうか。東京裁判で裁かれた人間たちだけに責任があるのか。
中国で厖大な人数の民間人を虐殺した関東軍の軍人たちには何の責任もないのか。戦争反対を叫んでいる者たちを逮捕し、投獄し、拷問し、殺した者たちには何の責任もないのか。彼らを密告した近所の人々には何の責任もないのか。「がんばれ日本」と戦争を応援した国民には何の責任もないのか。
国は一部の横暴な指導者たちだけでは運営できない。国民の賛成がなければ、経済的な後ろ盾を得ることができず、結局は失脚する。クーデターで軍が政権を奪取したビルマも、近いうちに軍司令官のミン・アウン・フラインが失脚すると予想している。再度アウン・サン・スー・チーが政権を握り、少数民族に自治権を認めれば、世界各国からの援助や経済協力が得られるだろう。少数民族に自治権を与えると援助を打ち切るとアウン・サン・スー・チーを脅している国は、ビルマと国交を断絶するかもしれないが、それはそれでいいと思う。
国民のコンセンサスがなければ戦争に突き進めないのは明らかだが、どの国の国民も、他国の民間人の虐殺など望んでいないと思う。虐殺は常に軍によって行なわれる。人を殺すための組織なのだから、当然のように人を殺す。相手が軍人か民間人かの区別は意外と難しいから、全部殺しておけば間違いはないのだ。軍人に深い考えはないから、スパイかもしれない敵国人は皆殺しにするのだ。
しかし銃後の国民は戦場の現実を知らない。軍が戦場ではなく民間人の住む地域に行って略奪し陵辱し皆殺しにしていることなど知らされようがない。軍人と同様にこちらも深い考えはないが、残虐行為はしていない。ただ新聞を見て勝った、また勝った、日本軍はすごいと応援しているだけだ。その行為は戦争に反対しなかった不作為として責められるが、断罪されるほどのことではない。日本の戦争責任を取って日本国民全員が死刑に処されることはないのだ。
復讐を考える人間は違う見方をする。学校でいじめられたら、平日の昼頃、つまり殆どの学生と教師が学校にいる時間に、その学校を爆破しようと考えるのだ。あるいはマシンガンを乱射して全員を殺す。
本作品の主人公マックスはユダヤ人であり、腕に識別番号の入れ墨がある。ナチに捉えられた証拠だ。戦後になって妻と娘がナチに殺されたことを知る。復讐を誓うマックスはユダヤ人虐殺の報復を行なっているふたつのユダヤ人集団に合流するが、それぞれの考え方は異なる。マックスはより過激な集団に参加することにした。彼らの計画がプランAである。
ポイントはみっつ。ひとつはナチスの「一味」の範囲をどこまでとするのか。ひとつはユダヤ人虐殺の報復をする人々に、ユダヤ人代表としての資格があるのかどうか。最後のひとつは、一度も人を殺したことのないマックスに人が殺せるのかどうか。
事実に基づいた映画ということで、実際にそういう報復組織があったのだろう。ただ、ドイツ人とユダヤ人それぞれにホロコーストという史実が齎した澱のようなものがあって、人々がどのように折り合いをつけていったのかが解るし、戦後すぐのドイツ人には依然としてユダヤ人に対する偏見があったことも解る。その偏見は戦後78年を経過した現在に至っても、必ずしもなくなったとは言えない。
戦後のニュルンベルクの街を驚異の再現力で表現して、演じる役者陣は皆とても達者である。映画としての完成度は高い。ニュルンベルクのシーンは緊迫感がずっと続いて、鑑賞後はどっと疲れてしまった。