平凡であることを嫌う変わり者の青年と、彼が密かに思いを寄せる女性との10年間をつづった青春映画。自分勝手で少し変わり者の“ボク”は、高校で同じ器械体操部に所属していた平凡そのものの女の子・まなみのことがずっと好きだった。高校時代、大学時代、現在までの10年間で多くの出会いと別れを経験しても、まなみに対するボクの思いは変わらず、その理由もわからない。やがて、まなみが結婚することになり……。「うみべの女の子」の青木柚がボク、「アルプススタンドのはしの方」の中村守里がまなみを演じ、「サマーフィルムにのって」の伊藤万理華、「死刑にいたる病」の宮崎優が共演。「満月の夜には思い出して」の川北ゆめき監督がメガホンをとり、川北監督の実体験をもとに「苦役列車」のいまおかしんじが脚本を手がけた。シンガーソングライターの大槻美奈が音楽を担当。
まなみ100%評論(15)
ジャケ買いみたいな、タイトルだけで見に行った
悪くなかった
3.5に近い3
「『残る』映画になりそう」。観終わった直後に持った感覚がこれだった。
一件落着のカタルシスは無い。かと言って、「何この映画〜めっちゃモヤモヤする…!」というフラストレーションとも違うものだ。
10年間を描く映画なので、スクリーンには10年の時間の経過が映し出されていく。だが、当然映し出されなかったかれらの人生の時間というのが多々あって、思いはそこへいく。
あるいは、語られなかった、描写されなかった、各シーンでの登場人物個々の内面、感情の揺れや動きに、思いを凝らさずにはいられない。
描かれなかったものをつかみたくなって、自分の中で歩いている時や電車の中でなんかでふっと深掘りが発動されそうな。
それが、長い先まで繰り返されそうな。
「残る」の意味はそういうことだ。映画は終わったのに、自分の内面のスクリーンにこの映画のどこかのシーンが不意に投射されそうな、そんな予感がある。
わからないこと、というか、「ボク」や「観ている自分自身」や「一般論」など主語がうつろいながら、あれこれを考えてしまう。テツガクしてしまう…。
「誰かを本気で好きになるって、どういう状態だろう。自分には『ボクと違って』わかっている、だなんて言えるだろうか?」
「『誰かを本気で好きな心の状態』は、自分以外の他者にきちんと届くのだろうか」
「ボクは、好意が届かない(片想い状況)の時に一番『愛』を実感できる男なんだよなきっと(まなみ、瀬尾先輩、くろけいちゃん…)」
「付き合った女性との時間を10年分、そこにフォーカスを当てて抜き出し並べるのなら、誰だって(?)この映画みたいにだらしない感じになっちゃうのではないか?」
「出会い、セックスできた興奮だけではなく、別れの決定的な場面(しかも自分の本質にダメ出しされる時間)を逃げずに描いているよなぁ」
「態度で示すって、人それぞれ多様であって良いはずだけど、一般化(例えばトイレ掃除)されてしまうのはどうしてなのだろう」
「複数の人に同時に惹かれて、好きと思う心の状態は、そこまで特殊だろうか?」
「それでも『本気で好き』は、一般化された形で目に見えないと届かないものだろうか」
「ボクが『もし、まなみと高校時代に相思相愛で正式に付き合うことができていたら、どうなっていたのだろう』など考えることがあっただろうか(きっとあっただろうな)」
「まなみの内面の描写は無い(ここで『(500)日のサマーでサマー側の心情描写が一切無いのを思い出してしまう)。門限を伝える時の硬い表情、引っ越しを繰り返す、転職の背景、町君が結婚したと聞いた時の様子、ボクとラブホに同室したのに『でもきっと後悔する』と伝えるまでの心の動き、ボクに対して「キミはほんとうにバカだね。」と言う時にどんなことを思っているのか…想像するたびに、一様ではなく、いろいろに思える。
「瀬尾先輩とサトシ先輩の関係性も、他者には謎だし、高い確率で本人たちにもわからないことが多くあったのではないか。それを言えば町君がどうして熊野君やボクにああいう口調なのか、性格が違ってもつるんでいるのか、そういうことって他者にはわからないし本人たちもはっきりわかってはいない。
人の内面や、人と人との関係って振り返ってみるとどうにも「わからない」がベースになっているけど、渦中の時間の中ではそこを嘆いたり斜に構えたりはしない。
「10年経つけど、互いのことわからないんだね」
のようなことを、ベッドでまなみは言う。
わからないのは、誰のせいだったのか。ボク、まなみ自身、2人が置かれた状況…。
わからない。けれど、あの日、まだピカピカのローファーをコッソリ踏み合ったことや、キミの笑い顔は消えないから。
永遠だから。
テツガクしていると、脳内BGMとして大江千里「dear」が流れてくる。笑 いや、実は(私の中では)ものすごいシンクロ具合なのだ。この映画の世界と、dearの主人公の目線というのが。
「あれから僕はいろんな街で 君の知らない夢を 追い続けてきたけど」(大江千里「dear」から歌詞を引用)
「男はいつもわがままだよ 変わらないでほしいのさ 時は戻せないけど」(同上)
「飲みすぎた朝 街の隅で あの日の君を思うよ」(同上)
「別々にいつか歳をとり 大事なもの変わっても ときめきは忘れない」(同上)
「きっと儚い激しさは 今も同じだから」(同上)
「あんな切なく 恋をした 君は永遠だから」(同上)
説明しようとすると、こぼれてしまうもの、消え去ってしまうものを、ただそのままカメラに収めておきたいということ。
監督がしたかったことの一つだと思う。そしてそれは、ボクがしたかった、けれどできなかったことでもあるはずだ。
結婚式の花嫁姿ではなく、ボクが心のフレームで収めたのは、桜の木の下で、まなみが立っている映像。
それは、美しい幻だ。下手すると一生、ということは人の生の中で永遠に、残ってしまいかねないものだ。
かつて、高校入学直後に、ボクはそのまなみを見たのか。
あるいは、10年経った先の「今」、追憶の中で自分の内なるフレームにとらえた映像なのか。
桜の木の下から、まなみがふっと消えた。
そこから先の時間を、ボクはどんなふうに生きていくのだろう。
星野源の曲に「くだらないの中に」というのがある。
この映画は、「わからないの中に」、まなみを、あるいは「結婚したいと無条件に思える誰か」を探す、そのボクの感覚や思いが走りまくった10年を描いているのかもしれない。
「わからない」の中に入り込んで、想像を広げたり思いを巡らせたり。この映画はその端緒を切り開いてくれて、きっかけを提供してくれて、それはしばらくの間内面で続いていくことだろう。その時間の豊かさを思えば、チケット代なんて安いもんだ。笑
そんなこの映画は、舌癌で亡くなった瀬尾先輩へと捧げられている。もちろん、「好きな人には伝えておくべきだ、後で伝えられなくなるかもしれないから」という言葉に実際に後押しされたというのはあるだろう。同時に、「100%」ではないかもしれないけど、ボクは瀬尾先輩が「好き、愛してる」存在だったはず。
男という生き物の一筋縄でいかなさ(あるいは遺伝子に組み込まれたシンプルさ)を、図らずも表現しているように思った。
大槻美奈さんの素晴らしい才能が示された映画でもあると思う。
劇中の透明感あるピアノの音色。『森崎書店の日々』での野崎美波さんを思い起こした。ピアノで曲作りする大江千里さんにも通ずるものが…と強引に結びつけてみる笑
「ボク」と「まなみ」の高校生からの10年間の出来事を表現したストーリー。
実話ベースと言う事に驚く(笑)
なぜ本作を作ろうと思ったのか?
誰かに向けたメッセージなのか?
意図がよく解らなかった。
「まなみ100%」のタイトルも良く解らない(笑)
高校に入学し「ボク」が体操部に入部。
まなみも体操部なんだけど「ボク」がまなみに求婚する展開。
事ある毎にプロポーズするのに違和感発生。
まなみに直接「好き」とか「付き合って」とか言わないのが不思議。
「ボク」は自分の気持ちを素直に喋る事が出来ない性格なのか?
もっと素直になればと鑑賞しながら思う。
一方「まなみ」の行動もよく解らない(笑)
「ボク」の事をどう思っているのか?全く不明。
デート中に門限があるからと帰ったり、そうかと思えばラブホに行ったりする行動が理解出来ず。
この二人がじゃれ合うシーンも見ていて恥ずかしい(笑)
猿語って何なの?(笑)
まなみの結婚式でカメラを回す「ボク」。どんな気持ちでカメラを回しているのかもよく解らない。
共感も感動も涙も無く上映終了。
でも「ボク」役の青木柚さんの倒立やバク転が美しく素晴らしかった!
伊藤万里華さんが体操部の先輩役の瀬尾先輩役で登場。
入院中のシーンの顔が凄かった。
目が腫れているシーンはなかなかリアル!
本作は瀬尾さんの為に作られたのかとエンドロールで思うも、ちょっと違うかな?
本作での収穫は青木柚さんの運動神経が良いのが解った事でした( ´∀`)
「ぼく」は、16歳で止まったまま。ローファーを踏み合った足の指先が痛いまま。
「結婚しようよ」
「嫌、だって本気じゃないもん」
「キミは、本当にバカだね」
このキャッチボールをずっと楽しみたかった。
「ぼく」はいつまでも16歳のつもりだったから、出会った女性は、どんどん遠い所へ行って、サヨナラされてしまう。
まなみちゃんは、別だと勝手に思っていたら、もっともっと遠い所にいた。
一緒にラブホに行っても、周回遅れの「ぼく」には間近にいるのに、遠い存在だった。
そして、まなみちゃんは結婚することになった。「ぼく」は、まなみちゃんを「ぼく」の世界である、16歳のあの頃に連れ戻そうとしたが「キミは、本当にバカだね」と別れの挨拶をされてしまった。
現在交際中の女性と、ヨリを戻そうとしたが、やはり、16歳の世界から離れることができず、桜の綺麗な季節へ、まなみちゃんを探しに行った。「ぼく」の16歳は、永遠に終わらない。
追記 監督の自伝的作品で、実在のまなみちゃんは、結婚していないらしいが、もし、そうなら、五代裕作が酒の力で叫んだように、この作品の力を借りて「まなみちゃん、好きじゃ~」といいたかったのであろうか。